震災後初めての浜通り
あと少しで震災から8ヶ月が経とうとしている。
やはり福島県民としてこの目で見ておきたいと言う思いに駆られ、ようやく浜通りを訪問。
早く見ておくべきだと言う人もいたが、興味本位では見たくないと言うのが正直なところ。
見る見ないは本人次第、どのタイミングで見るかもそれぞれの考えでいいと思う。
私は歴史に残る大震災の爪痕をこれからの将来を担う子供達に見せておきたかった。
と言えば聞こえはいいが、実際のところ興味本位なのかもしれない。
長男と娘を連れ福島市から国道115号で相馬市へ、国道6号を横切り磯部方面とへ向かった。この高さまで津波が押し寄せたのだろうか、標識が曲がっている。
話に聞いてはいたが、この目で実際見るとその凄まじさが伝わってくる。瓦礫はだいぶ片付いている、しかし以前の面影はまったくない。
ここに住んでいた人達の、その生活のすべてを津波が持ち去ってしまったのだ。
しばし言葉を失ってしまった。
磯部大浜から大洲海岸を望む。
以前はよく来た場所だ。
震災に耐え生き永らえたカメを長男が見つけた。鶴は千年、亀は万年とはよく言ったものだ。
そして偶然に懐かしい人に逢った。一頃だいぶお世話になったTシゲオ氏。
震災直後ここに訪れ、変わり果てた風景に涙が止まらなかったと語ってくれた。
還暦を過ぎてなお元気のいい人だ。
次に向かうは相馬港、松川浦漁港、通常であれば磯部からは、日本の渚100選にも選ばれた大洲海岸を横目に大洲松川浦ラインを走ること約15分ほどで着く。
しかし、現在は通行は出来ないので松川浦の西側を迂回し松川浦漁港へ。津波で流されたのであろう無残な姿のマイクロバスが目に留まる。
重要港湾の相馬港が隣接するためか驚くほど人が多かった。
今や相馬のシンボルとも言える松川浦大橋。
現在通行止め。
沖防に乗りあげた漁船もそのままだ。想像を絶する高さの津波になすすべもなく笹舟のごとく流されたのだろう。
震災前は水揚げされた魚介類が集まり賑わったであろうこの場所も今はひっそりと静まり返っている。
相馬港から新地町へ向かう。
新地町もまた甚大な被害を受けた地域だ。震災前の新地町を思い出せないほど変わり果てていた。
海岸沿いの県道38号線(相馬亘理線)も道路が消失し橋脚だけになっている所もある。
津波は常磐線を破壊し国道6号も越えた、今でこそ瓦礫はだいぶ片付いたものの、その爪痕は生々しく残る。
TVなどでは、くの字に曲がった列車が映っていたのを思い出す。
県道38号線より国道6号を望む。この景色を見て子供達は何を思ったのだろう。
どんよりとした空がいっそう空気を重苦しくする。
新地町から福島市へ戻ろうと言うことになったが、もう一カ所どうしても見ておきたい場所があった。
当ブログで初めて明かすことだが、実は16年間サーフィンをやっていた。
海から離れてもうだいぶ経っているが、夏冬問わず足しげく通った場所である南相馬市鹿島区(旧鹿島町)
これから先、もうサーフィンすることもないと思うがやはりこの目で見ておきたかった。
サーフィンを覚えた右田浜方面を望む、遠くに原町火力発電所が見える。どれほどこの地から恩恵を受けただろうか、思い出が鮮明に蘇る。
変わり果てた姿にこれ以上ここでの写真撮影は控えておこうと思った。
何もしてやれない自分が腹立たしく思えた。
最後にやはりよく通った場所、北泉海岸。
子供達も小さい頃は頻繁にく連れてきたのでよく覚えていると言う。テトラ脇がきれいに割れている。
当然ラインナップには誰もいない。
相当長い年月がかかるだろうが、また何時かここでサーフィン出来る日が来ることを陰ながら願っています。
やはり福島県民としてこの目で見ておきたいと言う思いに駆られ、ようやく浜通りを訪問。
早く見ておくべきだと言う人もいたが、興味本位では見たくないと言うのが正直なところ。
見る見ないは本人次第、どのタイミングで見るかもそれぞれの考えでいいと思う。
私は歴史に残る大震災の爪痕をこれからの将来を担う子供達に見せておきたかった。
と言えば聞こえはいいが、実際のところ興味本位なのかもしれない。
長男と娘を連れ福島市から国道115号で相馬市へ、国道6号を横切り磯部方面とへ向かった。この高さまで津波が押し寄せたのだろうか、標識が曲がっている。
話に聞いてはいたが、この目で実際見るとその凄まじさが伝わってくる。瓦礫はだいぶ片付いている、しかし以前の面影はまったくない。
ここに住んでいた人達の、その生活のすべてを津波が持ち去ってしまったのだ。
しばし言葉を失ってしまった。
磯部大浜から大洲海岸を望む。
以前はよく来た場所だ。
震災に耐え生き永らえたカメを長男が見つけた。鶴は千年、亀は万年とはよく言ったものだ。
そして偶然に懐かしい人に逢った。一頃だいぶお世話になったTシゲオ氏。
震災直後ここに訪れ、変わり果てた風景に涙が止まらなかったと語ってくれた。
還暦を過ぎてなお元気のいい人だ。
次に向かうは相馬港、松川浦漁港、通常であれば磯部からは、日本の渚100選にも選ばれた大洲海岸を横目に大洲松川浦ラインを走ること約15分ほどで着く。
しかし、現在は通行は出来ないので松川浦の西側を迂回し松川浦漁港へ。津波で流されたのであろう無残な姿のマイクロバスが目に留まる。
重要港湾の相馬港が隣接するためか驚くほど人が多かった。
今や相馬のシンボルとも言える松川浦大橋。
現在通行止め。
沖防に乗りあげた漁船もそのままだ。想像を絶する高さの津波になすすべもなく笹舟のごとく流されたのだろう。
震災前は水揚げされた魚介類が集まり賑わったであろうこの場所も今はひっそりと静まり返っている。
相馬港から新地町へ向かう。
新地町もまた甚大な被害を受けた地域だ。震災前の新地町を思い出せないほど変わり果てていた。
海岸沿いの県道38号線(相馬亘理線)も道路が消失し橋脚だけになっている所もある。
津波は常磐線を破壊し国道6号も越えた、今でこそ瓦礫はだいぶ片付いたものの、その爪痕は生々しく残る。
TVなどでは、くの字に曲がった列車が映っていたのを思い出す。
県道38号線より国道6号を望む。この景色を見て子供達は何を思ったのだろう。
どんよりとした空がいっそう空気を重苦しくする。
新地町から福島市へ戻ろうと言うことになったが、もう一カ所どうしても見ておきたい場所があった。
当ブログで初めて明かすことだが、実は16年間サーフィンをやっていた。
海から離れてもうだいぶ経っているが、夏冬問わず足しげく通った場所である南相馬市鹿島区(旧鹿島町)
これから先、もうサーフィンすることもないと思うがやはりこの目で見ておきたかった。
サーフィンを覚えた右田浜方面を望む、遠くに原町火力発電所が見える。どれほどこの地から恩恵を受けただろうか、思い出が鮮明に蘇る。
変わり果てた姿にこれ以上ここでの写真撮影は控えておこうと思った。
何もしてやれない自分が腹立たしく思えた。
最後にやはりよく通った場所、北泉海岸。
子供達も小さい頃は頻繁にく連れてきたのでよく覚えていると言う。テトラ脇がきれいに割れている。
当然ラインナップには誰もいない。
相当長い年月がかかるだろうが、また何時かここでサーフィン出来る日が来ることを陰ながら願っています。
この記事へのコメント
ありえないっつ~の!!!!
ってほどの地震による津波の凄まじさです。
そこでお付き合いのあった方々や家族の失った人たちのことを考えると・・・、
やはり、心の平常心を保つのが精一杯です。
怒りも悲しみの矛先も、いったいどこへ向ければいいのかな?って思います
と原発事故の二重苦を味わってる
軽々しく復興と言う言葉など使えない心境でした。
いざ自分がその状況下に置かれた時、耐え抜くことが出来る自信が無いと思った。
それでも私達は前を向いて歩かなければならない。
ボランティアに行ったのですね。
直後の惨状を目の当たりにして、さぞ大きなショックをうけたことと思います。
私などTVで見ただけで行く勇気がなく今頃・・・
自分に出来ることをする、などと都合のいいことばかり考えてましたが、結局何もできず情けないの一言ですね。